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发布时间:2023-03-14 08:31:03

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窓際に立った湯川は、そこからじっと外を見つめた。その背中には、無念な思いと孤独感のようなものが漂っていた。久しぶりに出会えた旧友の犯行を知ってショックを受けているともとれるが、何か別の感情が彼を支配しているように草薙には見えた。

「それで」湯川が低く発した。「君はその話を信じたのか。その石神の供述を」

「警察としては、疑う理由がない」草薙はいった。「奴の証言に基づいて、様々な角度から裏を取っている。今日俺は、石神のアパートから少し離れたところにある公衆電話の周辺で聞き込みをしてきた。奴の話では、そこから毎晩のように花岡靖子に電話をかけていたということだった。公衆電話のそばに雑貨屋があるんだが、そこの主人が石神らしき人物を見かけていた。最近じゃ公衆電話を使う人間は少ないので、印象に残っていたらしい。電話しているところを何度も目撃した、と雑貨屋の主人はいっている」

湯川がゆっくりと草薙のほうを向いた。

「警察としては、なんていう曖昧な表現は使わないでくれ。君は信じたのか、と訊いているんだ。捜査方針なんかどうでもいい」

草薙は頷き、ため息をついた。

「正直いうと、しっくりこない。話に矛盾はない。筋は通っている。だけど、何となく納得できない。単純な言い方をすると、あの男があんなことをするとは思えない、という気持ちだ。だけど、それを上司にいったところで、相手にはしてもらえない」

「警察のお偉方としては、無事に犯人が捕まったのだから、それでいいじゃないか、というところなんだろうな」

「はっきりとした疑問点がたとえ一つでもあれば話が違うんだが、見事に何もない。完璧だ。たとえば自転車の指紋を消さなかった点については、そもそも被害者が自転車に乗ってきたこと自体を知らなかったと答えている。これまたおかしい点はない。すべての事実は石神の供述が正しいと語っている。そんな中では、俺が何をいっても捜査が振り出しに戻ったりはしない」

「要するに、納得はできないが、流れのままに石神を今回の事件の犯人だと結論づける、というわけか」

「そういう嫌味な言い方はやめてくれ。そもそも、感情より事実を重視するのはおまえの主義じゃなかったのか。論理的に筋が通っている以上、気持ちでは納得できなくても受け入れなくてはならないってのは、科学者の基本なんだろ。いつもおまえがいってることだぜ」

湯川は軽く首を振りながら、草薙と向き合って座った。

「最後に石神と会った時、彼から数学の問題を出された。P≠NP問題というものだ。自分で考えて答えを出すのと、他人から聞いた答えが正しいかどうかを確かめるのとでは、どちらが簡単か――有名な難問だ」

草薙は顔をしかめた。

「それ、数学か。哲学的に聞こえるけどな」

「いいか。石神は一つの答えを君たちに提示した。それが今回の出頭であり、供述内容だ。どこから見ても正しいとしか思えない答えを、頭脳をフル回転させて考案したんだ。それをそのままはいそうですかと受け入れることは、君たちの敗北を意味する。本来ならば、今度は君たちが、全力をあげて、彼の出した答えが正しいかどうかを確かめなければならない。君たちは挑まれているし、試されているんだ」

「だからいろいろと裏づけを取っているじゃないか」

「君たちのしていることは、彼の証明方法をなぞっているだけだ。君たちがすべきことは、ほかに答えがないかどうかを探ることなんだ。彼の提示した答え以外には考えられない――そこまで証明して初めて、その答えが唯一の解答だと断言できる」

強い口調から、湯川の苛立ちを草薙は感じた。常に沈着冷静なこの物理学者が、そんな表情を見せることはめったにない。

「おまえは石神が嘘をついているというんだな。犯人は石神じゃないと」

草薙がいうと、湯川は眉をひそめ、目を伏せた。その顔を見つめながら草薙は続けた。

「そう断言できる根拠は何だ? おまえなりに推理していることがあるなら、俺に話してほしい。それとも単に、昔の友人だから殺人犯だと思いたくないというだけのことなのか」

湯川は立ち上がり、草薙に背中を向けた。湯川、と草薙は呼びかけた。

「信じたくないのは事実だ」湯川はいった。「前にもいったと思うが、あの男は論理性を重視する。感情は二の次だ。問題解決のために有効と判断すれば、どんなこともやってのけるだろう。しかしそれにしても殺人とは……しかもそれまで自分とまるで関わりのない人間を殺すなんてのは……想像外だ」

「やっぱりそれだけが根拠なのか」

すると湯川は振り返り、草薙を睨みつけてきた。だがその目には怒りより、悲しみと苦しみの色のほうが濃く出ていた。

「信じたくはないが事実として受け入れざるをえない、ということが、この世にはあるもそれもよくわかっている」

「それでもなお、石神は無実だというのか」

草薙の問いに湯川は顔を歪め、小さくかぶりを振った。

「いや、そうはいわない」

「おまえのいいたいことはわかっている。富樫を殺したのはあくまでも花岡靖子で、石神は彼女を庇っているというんだろ。しかし、調べれば調べるほど、その可能性は低くなってくる。石神がストーカー行為を働いていたことは、いくつもの物証が示している。いくら庇うためとはいえ、そこまでの偽装ができるとはとても思えない。何より、殺人の罪を肩代わり出来る人間なんて、この世にいるか? 靖子は石神にとって家族でも妻でもない。じつは恋人ですらない女なんだぜ。庇う気があったり、実際に犯行の隠匿に手を貸したとしても、それがうまくいかなかったとなれば観念する。それが人間というものだ」

湯川が、不意に何かに気づいたように目を見張った。

「うまくいかなかった時には観念する。それがふつうの人間だ。最後の最後まで庇い続けるなんてのは至難の業だ」

湯川は遠くを見つめる目をして呟いた。

「石神だってそうだ。そのことは彼自身にもよくわかっていたんだ。だから……」

「なんだ?」

「いや」湯川は首を振った。「何でもない」

「俺としては、石神を犯人だと考えざるをえない。何か新しい事実が出てこないかぎり、捜査方針が変わることもないだろう」

これには答えず、湯川は自分の顔をこすった。長い息を吐いた。

「彼は……刑務所で過ごす道を選んだということか」

「人を殺したんだとしたら、それは当然のことだ」

「そうだな……」湯川は項垂《うなだ》れ、動かなくなった。やがてその姿勢のままいった。

「すまないが、今日は帰ってくれないか。少し疲れた」

どう見ても湯川の様子はおかしかった。草薙は問い質《ただ》したかったが、黙って椅子から腰を上げた。実際、湯川はひどく消耗しているように思えたからだ。

草薙が第十三研究室を出て、薄暗い廊下を歩いていると、階段を一人の若者が上がってきた。少し痩せた、やや神経質そうな顔をした若者のことを草薙は知っていた。湯川の下で学んでいる、常磐《ときわ》という大学院生だった。以前草薙が湯川の留守中に訪ねた際、湯川の行き先は篠崎ではないか、と教えてくれた若者だ。

常磐のほうも草薙に気づいたらしく、小さく会釈してから通りすぎようとした。

「あ、ちょっと」草薙は声をかけた。戸惑った表情で振り返った常磐に、彼は笑顔を向けた。

「少し訊きたいことがあるんだけど、時間あるかな?」

常磐は腕時計を見てから、少しだけなら、と答えた。

物理学研究室のある学舎を出て、主に理系の学生たちが使う食堂に入った。自動販売機でコーヒーを買い、テーブルを挟んで向き合った。

「君たちの研究室で飲むインスタントより、よっぽどうまいな」紙コップのコーヒーを一口飲んでから草薙はいった。大学院生の気持ちをほぐすためだった。

常磐は笑ったが、頬はまだ強張っているようだった。

世間話を少ししようかと思ったが、この調子では無意味だと判断し、草薙は本題に入ることにした。

「訊きたいことというのは、湯川助教授のことなんだ」草薙はいった。「最近、何か変わったことはなかったかな」

常磐は困惑している。質問の仕方がまずかったらしいと草薙は思った。

「大学の仕事とは関係のないことで、何か調べているとか、どこかへ出かけていったとか、そういうことはなかったかな」

常磐は首を捻った。真剣に考えているように見えた。

草薙は笑ってみせた。

「もちろん、奴が何かの事件に関係しているとか、そういうことじゃないんだ。ちょっと説明するのは難しいんだけど、どうも湯川は俺に気を遣って、何か隠していることがある感じなんだ。君も知っていると思うけど、あの男はなかなかの偏屈だからね」

こんな説明でどれだけのことが伝わったかは不明だったが、大学院生はやや表情を崩して頷いた。偏屈、という点だけは同意できたのかもしれない。

「何かお調べになってたのかどうかはわかりませんけど、何日か前に先生は図書館に電話しておられましたよ」常磐はいった。

「図書館? 大学の?」

常磐は背いた。

「新聞があるかどうか、問い合わせておられたようでした」

「新聞? 図書館なんだから、新聞ぐらいは置いてるだろ」

「まあそうなんですが、古い新聞をどの程度保管しているのか、湯川先生は知りたかったみたいですよ」

「古い新聞か……」

「といっても、そんなに前の新聞のことではなかったようです。今月分の新聞は全部すぐに読めますか、というような訊き方をされてたと思います」

「今月分ねえ……。それでどうなのかな。読めたのかな」

「図書館に置いてあったんだと思います。それからすぐに先生は図書館に行かれたようですから」

草薙は頷くと常磐に礼をいい、まだコーヒーが半分近く残っている紙コップを手に立ち上がった。

帝都大学の図書館は三階建ての小さな建物だ。草薙は自分がこの大学の学生だった頃、ほんの二、三度しか図書館を訪れたことがない。だから補修工事がなされたことがあるのかどうかもよくわからなかった。彼の目には、まだ新しい建物に見えた。

中に入ってすぐのカウンターに係の女性がいたので、彼は湯川助教授が新聞を調べていた件について尋ねてみた。彼女は不審そうな顔をした。

草薙は仕方なく警察手帳を出した。

「湯川先生がどうとかじゃないんです。ただ、その時にどんな記事をお読みになっていたかを知りたいだけなんです」不自然な質問の仕方だと思ったが、それ以外の表現を思いつかなかった。

「三月中の記事を読みたいのだけど、ということだったと思います」係の女性は憤重な口調でいった。

「三月中の、どんな記事ですか」

「さあ、それはちょっと」そういってから彼女は、何かを思い出したように軽く口を開けた。

「社会面だけでもいい、とおっしゃったように思います」

「社会面? ええと、それで新聞はどこに?」

こちらへどうぞ、と彼女が案内してくれたのは、平たい棚の並んでいるところだった。その棚の中に、新聞が重ねて収められている。十日ごとに入れてある、と彼女はいった。

「こちらでは過去一か月分の新聞しかありません。それより古いものは処分するんです。前は保管していたんですけど、今はインターネットの検索サービスなんかで、過去の記事は読めますから」

「湯川は……湯川先生は一か月分でいいとおっしゃったんですね」

「ええ。三月十日以降でいいと」

「三月十日?」

「はい。たしか、そうだったと思います」

「この新聞、見せてもらっていいですか」

「どうぞ。終わったら声をかけてください」

係の女性が背中を向けると同時に、草薙は新聞の束を引き出し、そばのテーブルに置いた。三月十日の社会面から見ていくことにした。

三月十日は、いうまでもなく富樫慎二が殺された日だ。やはり湯川はあの事件について調べるために図書館に来たのだ。だが新聞で何を確かめようとしたのか。

草薙は事件に関する記事を探した。最初に載ったのは三月十一日の夕刊だ。その後、遺体の身元が判明したことについて、十三日の朝刊に載っている。だがそれを最後に、続報は途絶えてしまう。次に載っているのは、石神が出頭したことを知らせる記事だ。

湯川はこれらの記事のどのあたりに注目したのか。

草薙は数少ない記事を念入りに、何度も読み返した。いずれも大した内容ではない。湯川は草薙によって、事件について、これらの記事よりもっと多くの情報を得ている。改めて記事などを読む必要はないはずなのだ。

草薙は新聞を前に、腕組みをした。

そもそも、事件のことを調べるのに、湯川ほどの男が新聞記事を頼りにするとは思えなかった。毎日のように殺人事件が起きる現状では、何か大きな進展でもないかぎり、一つの事件をいつまでも新聞が取り上げ続けるということはめったにない。富樫が殺された事件にしても、世間から見れば珍しい出来事ではない。そのことを湯川がわかっていないはずがないのだ。

だがあの男は無意味なことをする人間ではない――。

湯川にはああいったが、やはり草薙の中には、石神を犯人と断定しきれない気持ちが残っている。自分たちが誤った道に迷い込んでいるのでは、という不安は拭いきれない。何がどう間違っているのか、湯川にはわかっているような気がしてならなかった。これまでもあの物理学者は、何度か草薙たち警察陣を助けてくれた。今回も有効な助言を持っているのではないか。持っているのだとしたら、なぜそれを聞かせてくれないのか。

草薙は新聞を片づけ、先程の女性に声をかけた。

「お役に立ったでしょうか」彼女は不安そうに訊いてきた。

「ええまあ」草薙は曖昧に答えた。

そのまま彼が出ていこうとした時、係の女性がいった。「湯川先生は地方新聞も探しておられたみたいですけど」

「えっ?」草薙は振り返った。「地方新聞?」

「はい。千葉や埼玉の地方新聞は置いてないのかって訊かれました。置いてませんと答えましたけど」

「ほかにはどんなことを?」

「いえ、尋ねられたのはそれだけだったと思います」

「千葉とか埼玉……」

草薙は釈然としないまま図書館を出た。湯川の考えていることがまるでわからなかった。なぜ地方の新聞が必要なのか。それとも、彼が事件について調べているというのは草薙の勝手な思い込みで、その目的は事件とは全く関係ないのか。

考えを巡らせながら、草薙は駐車場に戻った。今日は車で来ていた。

運転席に乗り込み、エンジンをかけようとした時だった。目の前の学舎から湯川学が出てきた。白衣は着ておらず、濃紺のジャケットを羽織っている。思い詰めたような表情で、周りには全く目をくれず、真っ直ぐに通用門に向かっていく。

湯川が門を出て左に曲がるのを見届けてから、草薙は車を発進させた。ゆっくりと門から出ると、湯川はタクシーを捕まえているところだった。そのタクシーが走りだすのと同時に、草薙も道路に出た。

独身の湯川は、一日の大半を大学で過ごしている。自宅に帰ってもやることがないし、読書もスポーツも大学にいたほうがやりやすい、というのが彼の言い分だった。食事をとるのも楽だ、といっていたこともある。

時計を見ると、まだ五時前だ。彼がこんなに早い時間帯に帰宅するとは思えなかった。

尾行しながら草薙は、タクシーの会社と車番号を記憶した。万一途中で見失った場合でも、湯川をどこで降ろしたか、後で調べられるからだ。

タクシーは東に向かっていた。道は少し混んでいる。草薙の車との間に、何台かの車が出たり入ったりしたが、幸い信号などで引き離されることはなかった。

やがてタクシーは日本橋を通過した。間もなく隅田川を渡るというところで止まった。新大橋の手前だ。その先には石神たちのアパートがある。

草薙は車を路肩に寄せ、様子を窺った。湯川は新大橋の脇にある階段を下りていく。アパートに行くのではなさそうだ。

草薙は素早くあたりを見回し、車を止められそうな場所を探した。幸い、パーキングメーターの前が空いていた。そこに駐車すると、急いで湯川の後を追った。

湯川は隅田川の下流に向かってゆっくりと歩いていた。何か用があるようには見えず、散歩しているような歩調だった。彼は時折、ホームレスたちのほうに目を向けた。しかし立ち止まることはない。

足を止めたのは、ホームレスたちの住居が途切れたあたりでのことだ。彼は川縁に作られた柵に肘をついた。それから不意に草薙のほうに顔を巡らせた。

草薙は少したじろいだ。しかし湯川には驚いている気配はない。薄く笑っているほどだった。

どうやらずいぶん前から尾行に気づいていたようだ。

草薙は大股で彼に近づいた。「わかってたのか」

「君の車は目立つからな」湯川はいった。「あんなに古いスカイライン、今はめったに見かけない」

「つけられてるとわかったから、こんなところで降りたのか。それとも、最初からここが目的地だったのか」

「それはどちらも当てはまるし、少し違うともいえる。当初の目的地はこの先だった。でも君の車に気づいて、少しだけ降りる場所を変更した。君をここに連れてきたかったからな」

「俺をこんなところに連れてきて、どうしようっていうんだ」草薙はさっと周りを見回した。

「僕が最後に石神と言葉を交わしたのが、この場所だったんだ。その時僕は彼にこういった。この世に無駄な歯車なんかないし、その使い道を決められるのは歯車自身だけだ、とね」

「歯車?」

「その後、事件に関する僕の疑問をいくつか彼にぶつけてみた。彼の態度はノーコメントというものだったが、僕と別れた後、彼は答えを出した。それが出頭だった」

「おまえの話を聞いて、観念して出頭したというのか」

「観念……か。まあ、ある意味観念なのかもしれないが、彼としては最後の切り札を出したというところじゃないのかな。その切り札を、じつに入念に用意していたようだから」

「石神にはどういう話をしたんだ」

「だからいってるじゃないか。歯車の話だ」

「その後に、いろいろと疑問をぶつけたんだろ? それを訊いてるんだ」

すると湯川はどこか寂しげな笑みを浮かべ、ゆらゆらと頭を振った。

「そんなものはどうでもいい」

「どうでもいい?」

「重要なのは歯車の話だ。彼はそれを聞いて出頭する決心をしたんだ」

草薙は大きくため息をついた。

「大学の図書館で新聞を調べただろ。目的はなんだ?」

「常磐君から聞いたのか。僕の行動まで探り始めたらしいな」

「俺だってこんなことはしたくなかった。おまえが何も話してくれないからだ」

「別に気を悪くしているわけじゃない。それが君の仕事なんだから、僕のことでも何でも調べてくれて結構だ」

草薙は湯川の顔を見つめてから頭を下げた。「頼む、湯川。もうそんな思わせぶりなことはやめてくれ。おまえは何か知っているんだろう? それを教えてくれ。石神は真犯人じゃないんだろ。だったら、奴が罪をかぶることは理不尽だと思わないのか。昔の友人を殺人犯にしたいわけじゃないだろ」

「顔を上げてくれ」

湯川にいわれ、草薙は彼を見た。はっとした。辛そうに歪められた物理学者の顔があった。彼は額に手をやり、じっと目を閉じた。

「もちろん僕だって彼を殺人犯なんかにしたくない。だけど、もうどうしようもないんだ一体、どうしてこんなことに……」

「おまえ、何をそんなに苦しんでるんだ。なんで俺に打ち明けてくれないんだ。友達だろうが」

すると湯川は目を開け、厳しい顔のままいった。「友達であると同時に刑事だ」

草薙は言葉を失った。この長年の友人との間に、初めて壁の存在を感じた。刑事であるがゆえに、これまで苦悩の表情など見せたことのない友人から、その理由を聞き出すことさえできないのだ。

「これから花岡靖子のところへ行く」湯川がいった。「一緒に来るかい?」

「行ってもいいのか」

「構わない。ただし、口は挟まないでくれるか」

「……わかった」

くるりと踵を返し、湯川は歩き始めた。その後を草薙はついていく。湯川の当初の目的地は弁当屋の『べんてん亭』だったらしい。花岡靖子と会って何を話すつもりなのか、今すぐに問い質したい気持ちだったが、草薙は黙って歩いた。

清洲橋の手前で湯川は階段を上がっていく。草薙がついていくと、階段の上で湯川が待っていた。

「そこにオフィスビルがあるだろ」湯川はそばの建物を指差した。「入り口にガラスドアがある。見えるかい」

草薙はそちらに目を向けた。ガラスドアに二人の姿が映っていた。

「見えるけど、それがどうかしたのか」

「事件直後に石神と会った時も、こうして二人でガラスに映った姿を眺めた。といっても、僕は気づかなかった。石神にいわれて、見たんだ。あの直前までは、彼が事件に関与している可能性など、全く考えなかった。僕は久しぶりに好敵手と再会できたことで、ちょっと有頂天にさえなっていた」

「ガラスに映った姿を見て、奴への疑いが生じたとでもいうのか」

「彼はこんなことをいったんだ。君はいつまでも若々しい、自分なんかとは大違いだ、髪もどっさりある――そういって自分の頭髪を少し気にする素振りを見せた。そのことは僕を驚かせた。なぜならあの石神という人物は、容姿など絶対に気にする男ではなかったからだ。人間の価値はそんなものでは計れず、それを必要とするような人生など選ばない、というのが昔からの主義だった。そんな彼が外見を気にしている。彼は確かに髪が薄いが、そんな今さらどうしようもないことを嘆いている。それで僕は気づいたんだ。彼は外見や容姿を気にせざるをえない状況にいる、つまり恋をしているのだとね。それにしても、なぜこんな場所で、唐突にそんなことをいいだしたのか。急に外見を気にしたのか」

湯川のいわんとすることに草薙は気づいた。彼はいった。

「間もなくその惚れている女に会うから、か」

湯川は頷いた。

「僕もそう考えた。弁当屋で働いている女性、アパートの隣人で、元夫が殺された女性こそ、彼の意中の相手ではないかと考えた。しかしそうなると大きな疑問がわく。彼の事件に対するスタンスだ。当然、気になって仕方がないはずなのに、傍観者を決め込んでいる。やはり彼が恋をしているというのは思い過ごしなのか。そこで改めて石神に会い、彼と一緒に弁当屋に行ってみた。彼の態度から何かわかると思ったからだ。するとそこに思いがけない人物が現れた。花岡靖子の知り合いの男性だ」

「工藤だ」草薙はいった。「現在、靖子と付き合っている」

「そうらしいね。その工藤なる人物と彼女が話しているのを見ている時の石神の顔――」湯川は眉間に皺を寄せ、首を振った。「あれで確信した。石神の恋の相手は彼女だとね。彼の顔には嫉妬の色が浮かんでいた」

「しかしそうなると、一方の疑問がまた出てくる」

「そう。その矛盾を解決する説明は一つしかなかった」

「石神が事件に絡んでいる――おまえが奴を疑い始めたのは、そういう流れからだったのか」草薙は改めてビルのガラスドアを見た。「恐ろしい男だよ、おまえは。石神としては、一筋の傷が命取りになったわけか」

「彼の強烈な個性は何年経っても僕の記憶に焼き付いていた。そうでなかったら、僕でも気づかなかった」

「どっちにしても、奴にツキがなかったということだな」そういって草薙は通りに向かって歩き始めた。だが湯川がついてこないことに気づくと、立ち止まった。「『べんてん亭』に行くんじゃないのか」

湯川は俯いて草薙に近づいてきた。

「君にとって酷なことを要求したいんだけど、構わないか」

草薙は苦笑した。「内容によるな、それは」

「一人の友達として、僕の話を聞けるか。刑事であることは捨てられるか」

「……どういうことだ」

「君に話しておきたいことがある。ただし、友達に話すのであって、刑事に話すのではない。だから僕から聞いたことは、絶対に誰にもしゃべらないでもらいたい。君の上司にも、仲間にも、家族にもだ。約束できるか」眼鏡の向こうの目には、切迫感が溢れていた。ぎりぎりの決断を迫らざるをえない事情が湯川にはあるのだと感じさせた。

内容による、といいたいところだった。だが草薙はその言葉を呑み込んだ。それを口にすればも今後この男から友人と認めてもらえないと思った。

「わかった」草薙はいった。「約束する」

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